分析心理学と分子生物学という、異なったアプローチで生命と向き合う二人が同じ壁にぶつかる。それは「因果律では扱えない物事がある」ということ。彼らはそれを「偶然」とあらわす。この「偶然」に対する彼らの姿勢とは
Jung & Monod
ユング(Carl Gustav Jung[1875-1961])はスイスの心理学者、精神分析者です。ペルソナやコンプレックスといった概念でお馴染みかと思います
ジャック・モノー(Jacques Lucien Monod[1910-1976])はフランスの分子生物学者です。大腸菌の遺伝子発現のしくみについて研究し、フランソワ・ジャコブ(Francois Jacob)とともにオペロン説を唱えました。このことで1965年のノーベル医学生理学賞を受賞しています
JungとMonodは、それぞれ分析心理学と分子生物学という視点にたって生命に向き合いました。分析心理学は精神面から、分子生物学では肉体面から生命に切り込みをいれていきます
ふたりが残した著作のなかには、似ていると感じる記述があります。それはおもに次の二点についてです
- 科学の範疇(考え方と限界)
- 因果律では扱えない物事としての「偶然」
今回は、これらについて実際の記述をみていきたいと思います
科学の範疇
Jungの語り
海鳴社の「自然現象と心の構造」という本に、「非因果的連関の原理としての共時性」というJungの論文がのっています。ここでは下のような言葉を残しています
自然法則は統計学上の真理である。それはわれわれが巨視的物理学量を扱っているときにのみ完全に妥当なことを意味している。
C. G. ユング・W. パウリ著 河合隼雄・村上陽一郎訳「自然現象と心の構造 非因果的連関の原理」海鳴社(1976), p.5
自然法則についてのわれわれの概念の根底に横たわっている哲学的原理は、因果性(causality)である。
C. G. ユング・W. パウリ著 河合隼雄・村上陽一郎訳「自然現象と心の構造 非因果的連関の原理」海鳴社(1976), p.5
実験的な探究方法は、反復可能で規則的な事象の確立をめざしている。それで、唯一のあるいは稀れな事象は考慮から除外される。
C. G. ユング・W. パウリ著 河合隼雄・村上陽一郎訳「自然現象と心の構造 非因果的連関の原理」海鳴社(1976), p.6
キーワードは統計学、因果性、反復可能、規則的、です。科学がもとめる自然法則には、多くの事例があり、かつ因果性のあるものしか浮かび上がってこないことをJungは明言しています
Monodの語り
Monodは自らの仕事と思想について、一般大衆向けの本を残しています。その邦訳本がみすず書房の「偶然と必然」という本です。ここには次のような言葉があります
(前略)いろいろの現象を分析するばあいの科学の根本的な戦略は、まず不変なるものをさがすことなのである。
J. L. モノー著 渡辺格・村上光彦訳「偶然と必然」みすず書房(1972), p.116
科学は、個々の現象の多様性の示す多様性のなかから、不変なるものを探し求めることしかできないのである。
J. L. モノー著 渡辺格・村上光彦訳「偶然と必然」みすず書房(1972), p.118
科学は、唯一無二の出来事についてはなにも語ることはできず、それをどうすることもできない。科学は、その先験的確率がいかに微少なものであっても、ともかくそれが有限であるような出来事についてしかものを言うことはできない。
J. L. モノー著 渡辺格・村上光彦訳「偶然と必然」みすず書房(1972), p.168
最後の引用の「有限」という表現がわかりづらいかもしれません。ゼロを無限として、これに対応させる表現です。少なくともゼロでなければいい、ということです。可能性を考えたり、法則を探したりするのは、一度でも発生したことのある事象にかぎられます。一度でも発生した事象の先験的確率はゼロではなくなります。したがって唯一無二の出来事の先験的確率はゼロなので、科学の範疇を超えてしまいます
キーワードは不変です。科学は変わらないものを手がかりにするしかないものだとMonodは言っています
因果律では扱えない物事としての偶然
JungとMonodの記述には共通する言葉があります。それは「唯一」です。先に挙げたキーワードが科学に対する印象を表すとすれば、これは非科学の目印ということになるでしょうか
「唯一」に関連して、「稀れ」という言葉も挙げていいでしょう。そして「稀れ」に起こる事象は、「偶然」や誤差として、統計学上の手続きからは除外されてしまいます。偶然の出来事は科学の法則にはあらわれてこないし、科学によって追求することもできません
JungとMonodは「偶然」についてどんな認識をもって、どのように対応したのでしょうか
Jung:因果的には結びつかない同時の出来事
われわれはまず最初に、エネルギー論的な説明をすべて放棄して、結局この種の事象は因果性の観点からは考察することができないと言わざるをえない。
C. G. ユング・W. パウリ著 河合隼雄・村上陽一郎訳「自然現象と心の構造 非因果的連関の原理」海鳴社(1976), p.23
因果律(エネルギー論)は空間と時間の存在を前提としています。物理的変化に拘束されてもいます。しかし、空間も時間も、人類の生活に測定が導入されたために表れた概念だということで、不安定で、頼れる基準ではないとJungは考えます。それに夢や予知などにおいて、何かが物理的に変化しているわけでもありません
Jungの代表的な仕事に、連想実験があります。Jungはその試みにより、コンプレックスの有無やその種類を特定しようとしていました。コンプレックスの存在が連想時間に大きな遅延をもたらし、言葉への反応時間を乱れさせると考えていたのです
問題となったのは、まず、反応時間の乱れが基準値未満であったばあいに、それがコンプレックスが存在しないことの証明にはならないということでした。次に、基準値以上の乱れが見られたばあい、実験の決まりではコンプレックスがあると結論されるが、それがまちがいの可能性もあるだろうということです。言いかえると、反応の乱れが偶然に起こることもあるだろうということです
重要だと思われる事象でも、統計学的に有意でなければ誤差や偶然として切り捨てられていくのがJungには不服でした。断片的な記憶もときに重要な意味をもちえるのに、それが科学的にはまともに扱えないことを問題視しているのです
さらにJungは、普遍的無意識の現象を研究しているうちに、単なる偶然の度重なりだとは言い切れないような事実に出会していくのです。あまりにも意味深長で、「偶然」一緒に起きたとは信じられないような「偶然の一致」の事実です
こういった背景のもとにJungは、従来の科学よりもっと包括的に、自然のままの状態を観察しようと努めます。ある事象Aとある事象Bが、因果律によって原因Aと結果Bとして繋がることもあれば、ちがう状況で、ちがった原理によって、事象Cと事象Dを結びつけることもできるのではないか、というのです
では「ちがった原理」にはどういったことが求められるでしょう。Jungはこれに共時性(synchronisity)という言葉を当てています
私がこの用語を選んだのは、意味深くはあるが因果的にはつながっていない二つの事象が同時に生起するということが、本質的な基準であるように思われたからである。(中略)ある同一あるいは同様の意味をもっている二つあるいはそれ以上の因果的には関係のない事象の、時間における偶然の一致という特別な意味において、共時性という一般的概念を用いているのである。
C. G. ユング・W. パウリ著 河合隼雄・村上陽一郎訳「自然現象と心の構造 非因果的連関の原理」海鳴社(1976), p.33-34
ある種の感動を伴う、この特別な偶然の一致を、無意味な偶然の連続と区別して「意味のある偶然の一致(meaningful coincidence)」とも言っています
Jungは意味のある偶然の一致に関心をもちました。因果律から離れ、むしろ因果的に結びつかない事象が同時に生起する(共時性)という基準を設けて、偶然の事象をすくいあげようとしました
Monod:すべての創造の源
Monodは遺伝子発現のしくみについて研究していました。そこでわかったことは、バクテリアから人間にいたるまで、あらゆる生物は本質的におなじ化学的からくりで動かされているということです。生物の形態や生活様式がみせる、目も眩む多様性をひたすら掘り下げてゆくと、単一で厳密に正確な、精密機械のような世界に入るというのです
生物は例外なく、タンパク質と核酸という高分子で構成されています。タンパク質は20種類のアミノ酸から、核酸は4種類のヌクレオチドからつくられています。核酸はDNAとRNAの総称で、DNAがヌクレオチド配列の二重らせん構造をとっていることはお馴染みかと思います
DNAは「複製」によって正確な自分自身のコピーをつくります。そしてDNAの「転写」、RNAによる「翻訳」を経てタンパク質のアミノ酸配列がつくられてきます。このときのタンパク質は柔軟性のある線状構造(一次構造)であり、タンパク質が各自の機能を発揮するには、球状の三次元構造(三次構造あるいは四次構造)に変化する必要があります。この過程を「発現」と言います
発現過程はきわめて機械的です。適切な圧力や温度帯、イオン組成のもとでは、アミノ酸の配列順序によって、タンパク質の特有の球状構造が否応なしに決まります
複製や転写、翻訳はどうでしょうか。これもまた機械的に、パズルのピースを当てはめていくように、関係する各分子が直接のパートナーを識別しながら任務を遂行していくのです。
したがって、生物というシステムは全面的に極度に保守的かつ自己閉鎖的であり、また外界からのいかなる教えも絶対に受けつけないシステムであるということになる。(中略)細胞はまさしく機械なのである。
J. L. モノー著 渡辺格・村上光彦訳「偶然と必然」みすず書房(1972), p.128-129
生物というシステムは、いっさいの変化、いっさいの進化に抵抗しているのだとMonodは言います。そしてこの化学的からくりの普遍性がありながら、それぞれの種を特徴づけて区別する構造のちがいを生みだす原因に「偶然」があるというのです
進化という奇跡的な構築物の根底には、純粋に単なる偶然、すなわち絶対的に自由であるが、本質は盲目的である偶然があるだけである。
J. L. モノー著 渡辺格・村上光彦訳「偶然と必然」みすず書房(1972), p.131
複製や転写、翻訳の偶然のまちがいは、いつでも起こりうるものですが、眼にみえる突然変異や進化といったものはそう頻繁にあることではありません。Monodは偶然についてさらに次のようにも言います
(前略)それはちがう状況下では、偶然という概念が、たんにもはや操作的なものではなく、本質的な意義をもっていることがある。たとえば《完全に偶然的な一致》と言ってよいばあいがある。それはたがいに完全に独立している二本の因果の鎖が交錯することで生ずる。
J. L. モノー著 渡辺格・村上光彦訳「偶然と必然」みすず書房(1972), p.133
これはJungの「意味のある偶然の一致」と同じことを意味していると思います。ここでMonodが示そうとしているのは、偶然なる変化は、それが生物の企てに適うときにだけ保存され、進化をもたらすということです
「偶然」に対する姿勢
混沌とした「偶然」の宇宙のなかに輝く「必然」の星々、ふたりはきっとこのように世界をながめたのでしょう
Jungは、輝く星のない、暗闇にひそむ偶然をどうやって見るかに注力しました。そして共時性という概念をつくりました
Monodは、偶然の宇宙からどうやって星々がうまれてくるのかを考えました。偶然の自由さが傲慢な人間主義を退ける一方で、多様性の奇跡、自然の凄さをあらためて実感させてくれました
「偶然」は科学的でないからこそ、行き着く先は法則というより思想や概念になるのかなと思います。そこではその人らしい、ユニークな反応が引き出されるのかなと思います
それぞれ別の本でしたが、同じ年代を過ごした二人の学者が同じようなことを言っているのが興味深かったので取り上げてみました。ちがった言葉で表されても、同じ概念を想起させられるというのが面白いなあと思いました
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