「物理学はいかに創られたか(上)」に記されたアリストテレスの思想。
アリストテレスの記した原著にはどう書かれていたのか。原典を尋ねた軌跡
きっかけの言葉
私が気になっている言葉はこちらです
運動体はこれを押す力がその働きを失った時に静止する
アリストテレス「力学」
上記の引用は、厳密にかくと次のようになります。話の流れを汲むために、ひと段落全体を引用します
誤った手がかりが話の筋をもつれさせて解決を延ばしてしまうことは探偵小説の読者のよく知るところです。直観の命ずる推理法が誤っていて運動の間違った観念に導き、この観念が何世紀の間も行われたのです。このような直観が長く信じられていたおもな理由は恐らくアリストテレスの思想が全欧州に有力であったからでしょう。二千年間彼の著書と考えられて来た『力学』書の中に次のように書かれています。
運動体はこれを押す力がその働きを失った時に静止する。
Albert Einstein & Leopold Infeld ”The Evolution of Physics”, Cambridge University Press(1938)(アインシュタイン, インフェルト著 石原純訳「物理学はいかに創られたか(上)」, 岩波新書(1939), p.8)
アインシュタインとインフェルトがアリストテレスの著書を引用するかたちになっています。アリストテレスによる原著は古代ギリシャ語であり、アインシュタインとインフェルトは英語でこの本を書いています。それを邦訳しているわけですから、孫引きの孫引きといってもいいでしょう
今回は、アリストテレスが書いたところの、その大本がどうなっているか調べた結果をまとめたいと思います
原典「Physica」とは
Ἀριστοτέλης(ラテン語:Aristotelēs)による「Φυσικῆς Ἀκροάσεως」が原典にあたります
日本語版ウィキペディアと英語版Wikipediaでは、ギリシャ語のタイトルがなぜか若干異なります。単語の末尾は統一したほうがいいのではないか、という個人的な考えで英語版Wikipediaの表記を参考にします
英語版Wikipedia:Physics(Aristotle)
「Φυσικῆς Ἀκροάσεως」をラテン文字化したものが「Phusike akroasis」です。ラテン語に訳すと「Physica」や「Naturales Auscultationes」となるようですが、「Physica」とするのが主流のようです。そして英語では「Physics」となります
「Physica」は日本語だと「自然学」というようです。邦訳本では「力学」と書かれていましたが、物理学に特化した本書の内容に合わせて、石原氏があえてそう訳されたのかもしれません
「Physica(自然学)」に記された内容
日本語版ウィキペディアを参考に、「自然学」について軽く情報を入れておきたいと思います。自然学は次の全8巻からなります
第1巻 – 自然学の領域と原理の概説
第2巻 – 自然学の対象と四原因
第3巻 – 運動、無限
第4巻 – 場所、空虚、時間
第5巻 – 諸運動の分類
第6巻 – 分割と転化、移動と静止
第7巻 – 動者
第8巻 – 第一動者(不動の動者)と宇宙
このあと見ていきますが、アインシュタインとインフェルトによって引用されたのは、おそらく第8巻かと思われます。この巻は「自然学」のなんと四分の一を占めるほどのボリュームがあり、10章に細分化されていて、次のような章立てになっています
第1章 – 運動は常にあったし常にあるだろう
第2章 – 前章に反対する見解への反駁
第3章 – 時には運動し時には静止している事物がある
第4章 – 動くものは全て何かによって動かされる。特に自然的に動くものについて
第5章 – 第一の動かすものは他のものによって動かされるのではない。第一の動かすものは動かされ得ないものである
第6章 – 第一の動かすものは永遠で一つである。それは付帯的にさえ動かされない。第一の動かされるものも永遠である
第7章 – 移動が第一の運動である。移動以外のどんな運動・転化も連続的でない
第8章 – 円運動のみが連続的で無限である
第9章 – 円運動が第一の移動である。以上のことの若干の再確認
第10章 – 第一の動かすものは部分も大きさも持たず宇宙の周辺にある
引用元の特定方法
ギリシャ語の前に、まずは英訳版の中から、きっかけの言葉と内容が合致する箇所を探すことにしました。ブラウザの翻訳機能も併用しながら、第1巻から順に内容を確認します。その後原典の対応する箇所を見ていきます
どの言語であっても、翻訳することは難しい仕事です。古代ギリシャ語となるとさらに特殊性が増します。誰が翻訳したものをオリジナルとして用いるかは、重要事項であると言えます
今回は、ネット上で閲覧できたふたつの英訳版を参考にしました
1) R. P. HardieとR. K. Gayeによる英訳版
マサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology, MIT)が運営するサイトに、R. P. HardieとR. K. Gayeによる英訳版がありました
The Internet Classics Archive|Physics
The Internet Classics Archive|Physics|Book VIII
内容を確かめた結果、第8巻 第1章 第4段落の中ごろにそれらしい文言がありました。下がその文言です。太文字は私がつけたもので、きっかけの言葉と特によく対応していると思う箇所です
For if we are to say that, while there are on the one hand things that are movable, and on the other hand things that are motive, there is a time when there is a first movent and a first moved, and another time when there is no such thing but only something that is at rest, then this thing that is at rest must previously have been in process of change: for there must have been some cause of its rest, rest being the privation of motion.
“Physics”, Written by Aristotle, Translated by R. P. Hardie and R. K. Gaye, Book Ⅷ, Part 1, Paragraph 4
コレ全体でひとつの文です。長いですねえ。邦訳すると、こんな感じになるかと思います
というのも、動かされるものがある一方で動かすものがあり、そこには初めに動かし動かされるときがあるものだが、もし、別の場合に、そのようなものがないのに静止する何かがあるということになっているとしたら、その場合は、この静止するものは以前は変化の過程にあったに違いない。つまりその静止には原因があるに違いなく、それは運動の欠如のため、ということになるからである。
ものすっっごくややこしい…文法的にも内容的にもこれでちゃんと訳せているのか不安しかありません
2) Daniel W. Grahamによる英訳版
もうひとつ、SCRIBDというサイトにDaniel W. Grahamによる英訳版がありました
Aristotle & Graham – Physics VIII
この中で、1)で扱ったところと対応する箇所は次のようになっています。内容に合わせて太文字にしています
For there was some cause of its being at rest, for rest is the privation of motion. So before the first change there will have been a previous change.
Aristotle “Physics”, Book Ⅷ, Translated with a Commentary by Daniel W. Graham, p.2, Chapter 1
こちらの英訳では、欲しいところがちょうど区切りよく文に分かれていました。翻訳する人によって結構変わりますね。以下同様に邦訳してみました。()内は僭越ながら私の意訳です
なぜならそれが静止しているのには何らかの原因があったからで、静止とは運動の欠如だからである。したがって初めの変化(静止)の前には、それ以前の変化(運動)があったはずである。
参考までに、1)で引用したのと同じ範囲を下に残しておきます
For supposing that some things are movables and others potential movers, if at some future time there will be some first mover and a corresponding moved thing, while at another time there is no motion, but only rest, it is necessary for this first mover to undergo a previous change. For there was some cause of its being at rest, for rest is the privation of motion. So before the first change there will have been a previous change.
Aristotle “Physics”, Book Ⅷ, Translated with a Commentary by Daniel W. Graham, p.2, Chapter 1
原典へ突入する前に
Grahamによる英訳版には、ありがたいことに、原典のどのあたりを翻訳しているかを示す印が振られています。これを参考に、次回はいよいよ原典を覗いてみたいと思います。よろしくお願いします(?)
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