物理学は作り話

物理学の第一歩、科学的論理はどのようにしてこの世に現れたか。
論理の本質とは。物理とどう向き合うか、を考えるの巻

直感論の破滅

運動体はこれを押す力がその働きを失った時に静止する

アリストテレス「力学」

直観と論理は区別されます。そして大抵は論理のほうが妥当であり、信頼でき、適切であるとされます

さきほどのアリストテレスの言葉は、観察に基づいた直観であって、論理ではありません。一見すると正しいように見えて、このことはのちにガリレオによって覆されます

どのようにして覆されたのでしょう

論理は、想像することから始まります

例えばショッピングカートを押して、あるところで手を離すとします。ある短い距離を移動したのち止まってしまうでしょう。この距離をもっと延ばそうするなら、床をもっとなめらかにしたり、車輪の軸に油をさしてみたり、いろいろ工夫できます

この「床をなめらかにする」とか「油をさす」ということは、つまるところ何のためにそうするのでしょう。それは外からの余計な影響をなるべく無くすためです

全く摩擦のない状況を仮定しますと、手放したカートは止まることなく、移動し続けることになりそうです。こうしてガリレオは次のように結論づけます

もし物体が押されも引かれもせず、何の力も受けないなら、常に等しい速さで一直線に沿って運動する

そしてニュートンが慣性の法則として次のようにまとめます

すべて物体はこれに加えられる力によってその状態を変えられぬ限りは、静止または一様の直線運動を続ける

ガリレイが科学的論理を発見したことは、とてつもなく大きな偉業でした。アリストテレスの直観論を破り、直観からくる結論は必ずしも信頼のおけるものではないことを示したのです

現実を表すために、現実から離れる

実際には、摩擦などの影響を完全になくすことはできません。想像において理想化された実験は、決して現実に行われるものではありません

論理は、現実から直接に導かれるものではないのです。ただ万が一そうだったらどうなるだろうかと想像して、そこから引き出される結論が経験と一致したときに、想像が妥当であったと判断できるだけです

ですから、論理が現実をよく表しているといっても、それは現実から乖離した視点に立って想像をめぐらせた結果であって、現実そのものではありません

さきほどカートが止まる地点を「ある短い距離」と書きましたが、それは「タイル3枚分」と言うこともできます。もっと厳密に「30センチメートル」などと数値で言い表すこともできます。この方がより現実的です

この「現実的」とはどういうことでしょうか

「現実的」という言葉のさすところは、「現実と乖離しない」「現実の有り様とぴったり合う」というものです。現実そのものではない論理が、その表し方によって現実味を増してゆくというのは、考えれば不思議なものです

さらに言えば、数字とは本来抽象的なものです。しかし定量的でなければ、精密さを欠くというのです。具体的に表すために、抽象的な概念を持ち出すということも不思議ですね

数学の必要性と、地図との共通点

数字を使えば、数字を理解する人の誰もが導き出された結論を同じように理解できる、というかもしれません。数字や数学の知識が浸透した現代では、結果的に共通理解の恩恵に繋がっているでしょう

ですがそれよりも先に、物理学はある運動の結果を予測したいと望みます。そして、予測した結果と観察の結果がうまく合うかどうかを確かめなければなりません

なぜ数字で表される必要があるのかといえば、予測と観察の比べやすさのためにその必要があるのです。予測と観察の比較ができるなら、数学で結論づける必要はありません。物理においては、そういう形式をとると前提しているだけです

物理から離れてみると、数字ではない表現のかたちが見えてきます

例えば、初めて自分の家に遊びにくる友人に、地図を描いてあげることがあるかもしれません

地図はどのように描きますか

空の高いところから見下ろすように視点をとり、家と周りの構造物の位置関係を記します

その地図を描くにあたって、実際に空から見下ろすようなことはしません。今ならGoogleマップを見たり、ドローンを飛ばしたりすれば確認することもできますが、そんな道具がない時代から地図はありますし、想像できれば見る必要はありません

そして家の位置さえわかればよいので、その印はどういうように描いても構いません。印の形に対して、具体的であることは求められていません

地図を思い描くことは、論理を考えることに似ています。そして図形で記すことは、数字を使うことに似ています。さらに地図の妥当性は、実際に家へ遊びにくることで確かめられます。このように、現実から乖離した視点が現実をよく表す例はそこかしこにあります

真理として従うよりも、物語を楽しむように

数字を使うとなると、数字を扱うために数学を用いることに。なります。物理で使う数学は、物理の論理のためにあります。物理は自分たちで使うために特別な言葉をつくり、数字や数学の概念をもつくってゆきます

論理も、人間のつくりだす自由な創造物です

現実をよく表していることに気を取られて、ゆるぎない真理のように感じられたとしても、実はそうではないのです。論理を構築するという過程は、あたかも手ぶらで時計の内部構造を知ろうとするのに似ています。文字盤や動く針を見て、その音を聞いて、それらの事実に矛盾しない構造を心に描くようなものです

その想像が事実を説明できる唯一のものだとは、誰にも決められません。それはいったい、世の中の文学や芸術がつくられていく様と、どこを異にするのでしょう。物理の言うことは嘘ではないにしても、現実によく似せて描いた絵画のように、現実そのものというわけでもありません

物理はいつでも、どうやって生活に活かすか、実用性はどこにあるかと問われることを避けられません。利便性や効率性のためだけがその存在意義かのような印象を与えがちです

小説を読んだあと、気持ち新たに人と話せるようになった経験はありますか。絵画を観たあと、いつも以上に花が綺麗に見えた経験はありますか。木や土や水を見たあとでは、森の偉大さもより奥行きを増して感じられるのではないでしょうか

物理学にも、心のありかたとして、普段の生活に色をそえるようなチカラがあると思っています。信頼に値しないもの、難しいものとして距離をとらず、かといって恩恵だけをみて盲信することもしないで、物語を楽しむように物理と向き合えたらいいなと思います

参考:
アインシュタイン, インフェルト著 石原純訳「物理学はいかに創られたか(上)」岩波新書, 1939年10月, P.8-36

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